Created on September 04, 2023 by vansw
94
「わたしの実体は 本物のわたしはずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。 街は高い壁に周囲をかこまれていて、名前を持たない。 壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛 に護られている。そこにいるわたしは夢も見ないし、 涙も流さない」
それが、きみがその街のことを口にした最初だった。ぼくはもちろん何のことだかまるで理解 できなかった。名前を持たない街? 門衛? ぼくは戸惑いながら尋ねる。
「ぼくはそこに行くことができるの? 本物のきみがいる、その名前を持たない街に」
きみは首を曲げ、ぼくの顔を間近に見つめる。「もしあなたが本当にそれを望むなら」
「街の話をもっとくわしく聞きたいな。 そこがどんなところなのか」
「この次に会ったときにね」ときみは言う。「今日はその話をまだしたくない。もっと違う話を していたいの」
「いいよ。 時間をかけよう。 ぼくは待てるから」
きみは小さな手でぼくの手を握りしめる。 約束のしるしのように。