Created on September 04, 2023 by vansw

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える比喩的な信号のように聞こえる。


「でも急がないでね。 わたしの心と身体はいくらか離れているの。 少しだけ違うところにある。


だからあとしばらく待っていてほしいの。 準備が整うまで。 わかる?」


「わかると思う」とぼくはかすれた声で言う。


「いろんなことに時間がかかるの」


ぼくは時間の経過について考えを巡らせる。 ブランコの規則的な軋みに耳を澄ませながら。 「ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある」ときみは大事な秘密を打ち明 けるように言う。「ここにいるわたしには実体なんかなく、 わたしの実体はどこか別のところに ある。ここにいるこのわたしは、一見わたしのようではあるけど、 実は地面やら壁に投影された 影法師に過ぎない・・・・・・そんな風に思えてならない」


五月の日差しは強く、ぼくらは藤棚の涼しい影の中に座っている。実体が別のところにある? それはいったいどういうことなのだろう?


「そんな風に考えたことってない?」ときみは尋ねる。


「自分が誰かの影法師に過ぎないって?」


「そう」


「そんな風に考えたことはたぶん一度もないと思う」



「そうね、わたしがおかしいのかもしれない。でも、そう思わないわけにはいかないの」


「もしそうだとして、つまりきみが誰かの影法師に過ぎないとして、じゃあ、きみの実体はどこ にいるんだろう」


93 第一部