Created on October 16, 2023 by vansw
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彼は少しずつ前とは違う人間になっていくように私には思えた。言い換えれば、彼は刻々と成長 を遂げているのかもしれない。
「申し訳ないのですが、ぼくは悲しみというものを感じることができないのです」と彼は打ち明 けるように言った。 「これは生まれつきのものなのです。 でももしそうでなかったとしたら、も し仮にぼくが普通の人であったとしたら、ぼくはきっとこうしてあなたと別れることに、悲しみ というものを感じているはずだと思うのです。もちろんそれはあくまでぼくの想像に過ぎません し、悲しみがどういうものなのかほくには知りようもないのですが」
「ありがとう」と私は言った。「そう言ってくれるだけで嬉しい」
イエロー・サブマリンの少年はそれからしばらく沈黙を守っていた。それから言った。
「やはりぼくらは、もう二度と会えないかもしれません」
「そうかもしれない」と私は言った。
「あなたの分身の存在を信じてください」、イエロー・サブマリンの少年はそう言った。
「それがぼくの命綱になる」
「そうです。 彼があなたを受け止めてくれます。 そのことを信じてください。 あなたの分身を信 じることが、そのままあなた自身を信じることになります」
「そろそろ行かなくては」と私は言った。「このロウソクの火が消えてしまう前に」
少年はこっくりと肯いた。
私は胸に大きく息を吸い込み、ひとつ間を置いた。その数秒の間に様々な情景が私の脳裏に 次々に浮かんだ。 あらゆる情景だ。私が大切にまもっていたすべての情景だ。 その中には広大な
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