Created on October 16, 2023 by vansw

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でもその最後の夜、私にはその言葉を口にすることができなかった。 どのような意味合いにお


いても、そこにはもう「明日」は存在しないのだから。


代わりに私が口にしたのは「さよなら」というひとことだった。私がそう言うと、少女はまる で生まれて初めてその言葉を耳にしたみたいに、不思議そうな表情を顔に浮かべて、じっと私を 見た。いつもと違う別れの挨拶が彼女を戸惑わせたらしかった。


私も彼女の顔を、正面からまっすぐ見つめた。


そして私は気がついた。 気がつかないわけにはいかなかった。彼女の顔つき全体が、微かな変 化を見せていることに。 ここがこうという具体的な指摘はできないのだが、そこには間違いなく いくつかの細部の変更のようなものが見受けられた。 その顔立ちの輪郭や奥行きが、まるで細か く波打つように、前とは僅かずつかたちを変え始めているのだ。 振動のおかげで、トレースされ た画像が原形から微妙にずれていくみたいに。 それはほんの微かな、普通の人なら見逃してしま うであろうほどの変更ではあったけれど。


私の「さよなら」という言葉が――いつもとは異なる別れの挨拶がそのような変化を彼女


の相貌にもたらすことになったのかもしれない。いや、そうではなく、 そこで変わりつつあるの は、微妙な変更を受けつつあるのは、彼女の顔立ちではなくむしろ私の方なのかもしれない。私 という人間の心が変容を遂げているのかもしれない。


「さよなら」ともう一度私は彼女に向かって言った。


「さよなら」と彼女も言った。 まるでこれまで見たこともない食物を初めて口に入れる人のよう に、ゆっくり注意深く、 そして用心深く。 そのあと、いつもの小さな微笑みが口元に浮かんだが、


そうぼう


651 第三部