Created on October 16, 2023 by vansw
650
70
その少女を住まいの前まで送って別れるとき、私はいつも「また明日」と声をかけた。 考えて みれば意味のない言葉だ。 だってその街には、正確な意味での明日など存在しなかったのだから。 しかしそのことがわかっていても、私は彼女に向かって夜ごと、そう声をかけないわけにはいか なかった。
「また明日」と。
ほの
彼女はそれを聞くといつも仄かに微笑んだ。 でも何も言わなかった。 何かを言いたそうに唇が 僅かに開きかけることもあったけれど、結局言葉は出てこなかった。 そして私にくるりと背中を
向け、スカートの裾を翻し、貧しい共同住宅の入り口に吸い込まれるように消えていった。
そして私は、彼女との間にあった沈黙を思い返し (そう、 沈黙こそが、私たち二人が肩を並べ て川沿いの夜道を歩きながら、密接に共有したものだった)、その滋養を喉の奥にひそやかに味 わいながら、ひとり家路につくのだった。そのようにして私にとっての街での一日が終わった。 「また明日」と、私は川沿いの道をたどりながら、よく自分に向かって声をかけた。 そこには明 など存在しないことを知りながら。
すそ ひるがえ
650