Created on August 29, 2023 by vansw

Tags: No tags

143


の喪失が一時的なものなのか、永続的なものなのか判断のつかないまま)、うまく他人と関わり を持つことができなくなってしまったようだ。以前からぼくの中にそのような傾向があったのは 確かだが、それはいっそう強いものになる。 きみ以外の誰かとの交流にほとんど意味を見いだす ことができない。大学ではどこかのクラブや同好会に属することもなかったし、友だちと呼べる 相手も見つけられなかった。 ぼくの意識はきみ一人に集中していた。 いや、きみがぼくの中に残 していった記憶に集中していた、というべきなのだろう。


アパートの部屋にこもって多くの本を読み、名画座に通って二本立ての映画を観て時間を潰し、 ときどき都営プールで長距離を泳いだ。 歩き疲れるまであてもなく長い散歩をした。 東京は広い 街で、どれだけ歩いても通りが尽きることはない。それ以外に何かしただろうか? したかもし れない。でも何をしたのか思い出せない。


夏休みがやってきて待ちかねたように帰郷したが、事態は更にひどくなるばかりだ。 ぼくはほ とんど一日おきにきみの住んでいる街に出かけ、よく待ち合わせた公園のベンチに座り、その藤 棚の下できりなくきみのことを考える。 二人で過ごした時間の記憶を辿る。 きみがふらりとそこ に姿を見せないかと、一縷の望みを抱きながら。しかしもちろんそんなことは起こらない。


いちる



住所と地図を頼りに、きみの家を訪れてみる。 その住所には小さな二階建ての家が建っている。 庭もガレージも何もない、間口の狭い古びた一軒家だ。 しかし玄関にかけられた表札には違った 姓が記されている。 きみの一家はもうよそに越してしまったのだろうか。だとしたら、ぼくの出 した手紙は新しい住所に回送されたのだろうか? 管轄の郵便局に行けば、きみの一家の新住所 を教えてもらえるだろうか? いや、それは無理だろう。そしてそんなことをしても何の役にも



1


143