Created on October 16, 2023 by vansw

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私は黙って彼の話の続きを待っていた。まるで新たな知識を待ち受けるサモアの島の住人のよ


うに。


「しかし、酋長の話には逆らうようですが、ひとつこのように考えてみてはどうでしょう。つま り、椰子の木よりも高く椰子の木を登ってしまった人間は、まったくいないわけではないのだと。 たとえばここにいるぼくとあなたは、まさにそのような人間ではないでしょうか」


私はその光景を想像してみた。 私はサモアのどこかの島に生えているいちばん高い椰子の木の てっぺん (それはだいたい五階建ての建物くらいの高さがありそうだ)まで登っている。 そして そこから更に高く登ろうとしている。 しかしもちろん木はそこで終わっている。その先には青い 南国の空があるだけだ。あるいは無が広がっているだけだ。 空を見ることはできるが、無を目に することはできない。無というのはあくまで概念に過ぎないから。


「つまり、ぼくらは樹木を離れて、虚空にいるということなのかな? 摑むべきものが存在しな いところに」


少年は小さく堅く肯いた。「そのとおりです。 ぼくらはいうなれば虚空に浮遊しているのです。 そこには摑むべきものはありません。 しかしまだ落下してはいません。落下が開始するためには、 時間の流れが必要となります。 時間がそこで止まっていれば、ぼくらはいつまでも虚空に浮かん だままの状態を続けます」


「そしてこの街には時間は存在しない」


少年は首を振った。「この街にも時間は存在しています。 ただそれが意味を持たないだけです。 結果的には同じことになりますが」


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