Created on October 16, 2023 by vansw

Tags: No tags

637


れど、たしかサモアのどこかの島の酋長が二十世紀初頭に、ヨーロッパを旅行した体験を故郷の 人たちに向けて語るという内容だったと記憶している」


「そのとおりです。 ただしこれは今日では、ドイツ人の著者が、酋長の語りという形式を借りて つくりあげた、純粋なフィクションだと判明しています。いわゆる偽書です。 しかしこの本が多 くの人々によって手に取られ、読まれた時代には、本物の手記だと思われていました。無理もあ りません。よくできた、 そしてユーモアと叡智に満ちた近代文明への批評になっていますから」 「ぼくもてっきり本物だと思っていたな」と私は言った。


「本物でも偽物でも、そのへんはもうどちらでもいいことです。 事実と真実とはまたべつのもの です。でもそれはそれとして、この本の中には椰子の木の話が数多く出てきます。 この酋長の住 む島では、椰子の木がその島の人々の生活の中で大きな意味を持っていて、 なにかというと椰子 の木に喩えた話になるのです。身近でわかりやすいから。


その中にこんな記述があります。酋長は集まったみんなに向かって言います。 「誰でも足を使 って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない」。 これはおそらく ヨーロッパ人が都市に高い建物を建設し、上へ上へと向かって伸びていくことを揶揄した発言で す。 「誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない」。 とても具体的でわかりやすい表現です。 誰が聞いてもわかる喩え話です。 そしてまた含蓄に富ん でいます。 この酋長の話をまわりで聞いている聴衆はもちろん実際に聴衆がそこにいたとす ればですがうんうんと肯いていたことでしょうね。 どれほど木登りが巧みな人でも、椰子の 木そのものより高く登ることはまずできませんから」


がんちく


637 第三部