Created on October 15, 2023 by vansw
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私たちは普段より早く図書館を閉めた。 私たちにそこでできることはとりあえず何もなかった からだ。そしていつものように私は彼女を、彼女の住居まで歩いて送ろうとした。 しかし彼女は それを断った。
「今日は一人で歩いて帰りたいの」
それを聞いて一瞬胸が締めつけられ、うまく呼吸ができなくなった。 最初に図書館を訪れた数 日後からただの一日も欠かすことなく、私は仕事を終えたあと彼女を家まで送り届けていた。 二 人で肩を並べて川沿いの道を、職工地区にある古い共同住宅まで歩いた。 そしてそれは私にとっ て何より大事な意味を持つ日常の一部となっていた。 その安定した日常が、今日初めて乱された
のだ。梯子の段がひとつ取り払われるみたいに。
私は彼女に尋ねた。 「それはぼくが古い夢を読めなかったから? それとも耳たぶが腫れてい るから?」
彼女はその問いには答えなかった。そして言った。
「私には少し考えなくてはならないことがあるから」
彼女の声には、それ以上の質問を受け付けないという完結した響きが聞き取れた。だから私た ちはそこで、それ以上のやりとりもなく別れた。 彼女は川の上流に向けて歩き、私は下流に向け て、自分の暮らす宿舎の方向へ歩いた。 彼女の靴音が次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。 耳に届くのは川の流れの音だけになった。 夜の川の流れはどこまでも孤独だった。
私は行き場を持たない薄暗い心を抱え、夜更けの街路を一人で家路についた。彼女といつもと は違う別れ方をすると、自分がこうしてひとりぼっちであることが、ことのほか身にしみた。 そ
はしご
613 第三部