Created on October 15, 2023 by vansw
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はれる
腫はれ
えた軟膏とはずいぶん違う。
「これで様子を見てみましょう。うまく効くといいのだけれど」
彼女が不安げな表情を顔に浮かべるのは、そのときが初めてだったと思う。少女はそれまで常 に落ち着いた態度で、慌てたり困惑したりすることなく、図書館の日々の業務を淡々と物静かに こなしていたからだ。そして彼女のそんな心配そうな顔つきは、私の感じていた漠然とした不安 をいっそう高めることになった。私の耳たぶの腫れは単純な虫刺されのようなものではなく、何 か悪質な疾病の症状かもしれない。
おそらくそのためだろう。私はその夜、うまく〈古い夢〉を読み込むことができなかった。 古 い夢たちは、いつものようにすんなりと私の手のひらに身を預けようとはしなかった。 彼らは眠 りから目覚め、姿を現しこちらにやってくるのだが、少し手前で戸惑い、やがてそのままどこか に消えていった。おそらくはもとの殻の中に戻っていったのだろう。
「今日はなぜかうまくいかないみたいだ」、何度か試したあとで私は少女にそう言った。
彼女は青い。 「たぶん耳たぶが腫れて疼いているためでしょう。 だから気持ちが集中できな いのね。 腫れをおさめるのがだいいちになります」
「でも腫れの原因は誰にもわからないし、治療方法も見当たらない」
彼女はもう一度青いた。 憂いの表情をうっすらと顔に浮かべた彼女は、いつもより何歳か年上 に見えた。少女ではなく、ひとりの大人の女のように。そしてそのことは私を少なからず戸惑わ せた。彼女が今までとは僅かに印象を変化させたことに。
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