Created on October 13, 2023 by vansw
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んな感じの痛みが耳たぶに残っていたんだ。 夜のあいだに大きな虫に刺されたか、噛まれたかし たのかもしれない」
「スカートをはいた虫とかじゃなくて?」
「いや、そういうんじゃない」
「よかった」と彼女は微笑んで言った。
「もしよかったら、耳たぶをちょっと指で触ってもらえないかな」
「もちろん、喜んで」と彼女は言った。そしてカウンター越しに手を伸ばして、私の右の耳たぶ を指でつまむようにして、 何度も優しくさすってくれた。
「大きくて、柔らかい耳たぶ」と彼女は感心したように言った。 「うらやましいな。 私の耳たぶ なんてすごく小さくて硬いんだもの。貧相っていうか」
「ありがとう」と私は言った。「触ってくれて、おかげでずいぶん楽になった」
それは嘘ではなかった。 彼女の指先で優しく撫でられたあと私の耳の痛みはその微かな夢 の名残りは 新しい陽光に照らされた朝露のように。 あとかたもなく消え失せていた。
「また食事を一緒にしてくれるかな?」
「喜んで」と彼女は言った。 「誘いたくなったら、いつでも声をかけて」
図書館まで歩いて戻り、館長室のデスクに向かって日常の仕事を片付けながら、私は夢の一部 始終を思い出していた。考えまいと努めても、考えないわけにはいかなかった。その記憶は私の 意識の壁に鮮やかに貼り付いたまま、そこを離れようとはしなかったから。
569 第二部