Created on October 13, 2023 by vansw

Tags: No tags

568


店の小さなスピーカーからはジェリー・マリガンのソロが流れていた。 ずっと昔によく聴いた 演奏だ。私は熱いブラック・コーヒーを飲みながら、記憶の底を探り、 その曲の題名を思い出し た。 『ウォーキン・シューズ』、たしかそうだったと思う。 ピアノレス・カルテットでの演奏、ト ランペットはチェト・ベイカーだ。


しばらくして客席が落ち着き、手が空いたところで、彼女が私の前にやって来た。 細身のジー ンズに白い無地のエプロンという格好だった。


「なかなか忙しそうだ」 と私は言った。


「ええ、珍しく」と彼女は微笑んで言った。「来てくれて嬉しい。今はお休み時間なのね?」


「うん、だからあまり時間がないんだ」と私は言った。「ひとつ頼みがあるんだけど」


「どんなこと?」


私は右側の耳たぶを指さした。 「この耳たぶを見てくれないかな。 何かあとが残ってないか? 自分ではよく見えないものだから」


彼女はカウンターに両肘をつき、身を前に乗り出して、私の耳たぶをいろんな角度からしげし げと眺めた。 食料品店でブロッコリーを点検する主婦のように。 そして身体をまっすぐに戻して 言った。


「あとみたいなものは何も残っていないみたいだけど、いったいどんなあとのことかしら?」 「たとえば何かに噛まれたとか」


彼女は警戒するようにぎゅっと眉を寄せた。 「誰かに噛まれたの?」


「いや」と私は言って首を振った。 「誰かに噛まれたというわけじゃないけど、朝起きたら、 そ