Created on October 12, 2023 by vansw
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っているはずだ。 人々はそれぞれの生活に追われて忙しいのだ。 弟はポケットから手帳を出して、
そこにボールペンで何かを書き付け、ページを破って私に手渡した。
「これが僕の携帯電話の番号です。 どんな細かいことでもかまいません。 その壁に囲まれた街に 関して何か思い出されたことがあったら、連絡をいただけますでしょうか」
「わかりました。そうします」
彼はどうしようか少し迷ってから、真剣な声で私に打ち明けるように言った。 「比喩的にか、 象徴的にか、暗示的にか、そこはよくわかりませんが、M**は何かしらの通路を見つけて、そ の街に入り込んでしまったように、僕には思えてならないのです。言うなれば水面下深くにある、 無意識の暗い領域に」
私はもちろん肯定も否定もしなかった。 ただ黙って彼の顔を見ていた。
「そこまで行けば、あるいは弟は見つかるかもしれません。 でも僕らがそこに行くことは現実的 にできない」と弟は言った。
もし仮にそこで見つかったとしても、イエロー・サブマリンの少年は、こちらの世界に戻るこ とをおそらく望むまい。でももちろん兄たちに向かってそんなことは口にできない。
兄弟は私に丁寧に礼を言って、静かに部屋を出て行った。 その礼儀正しく、見るからに聡明そ うな青年たちがいなくなると、私は窓際に行って、誰もいない庭を長いあいだ眺めた。鳥たちが 葉を落とした樹木の枝にとまり、しばらくそこでさえずり、何かを求めてまたどこかに去ってい った。
「比喩的にか、象徴的にか、暗示的にか、そこはよくわかりませんが」と医学生の弟は言った。
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