Created on October 12, 2023 by vansw
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兄は何度か肯き、ネクタイの結び目に手をやった。 それがまだ正しい場所にあることを確認す
るみたいに。そして言った。
「M* *は聞くところによれば、どうやらあなたに個人的な親しみを感じていたようですね」
私は僅かに首を傾げた。「それを親しみと呼んでいいかどうか。 彼とそれほど親密に話をして いたわけではありませんから。 お父様にも申し上げたのですが、ほとんど筆談と身振りで意思を 伝えてくれたという程度のことです」
「いや、それだけでも大したことなのです」と弟が隣から口を挟んだ。 「M**は僕らにも―― ひとつ屋根の下で一緒に育ってきた兄弟に対してもそういうことはほとんどしてくれません でした。 なにか話しかけてもまずまともな返事は返ってきません。 父親に対してもそれは同じで す。 母親とも、生活に必要な最低限のやりとりはしますが、 それ以上の会話は望めません」
兄は肯いた。「そのとおりです。彼の方から我々に何かを話しかけてくるというようなことは、 まずなかった。いつも自分だけの世界にぴたりと閉じこもっているんです。 海の底の牡蠣みたい に。しかしあなたにはM**の方から進んで話しかけてきたわけですね」
「ええ、そうだと思います」と私は言った。 「彼の方から私に話しかけてきました」
「そしてあなたの姿を見かけて、駅前の商店街にあるコーヒーショップにまで入っていったとい うことです。 弟のような人間にとって、 それはまずあり得ないことです」
「どうやらそのようですね」
兄弟はしばらく口をつぐんでいた。私も黙って話の続きを待った。
兄が口を開いた。「失礼なことをうかがうようですが、 あなたのいったいどこに、どういうと
551 第二部