Created on October 11, 2023 by vansw
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「どうもしない。ただ訊いてみただけだよ。 五人のうち、三人は思い出せたんだけど、あと二人 の名前がどうしても出てこない。 昔はちゃんと覚えていたんだけどな。 それが昼過ぎからなんだ か気になっていたんだ」
「ロシア五人組ねえ」、 彼女はそう言って楽しそうに笑った。 「おかしな人」
「何かほくに話すことがあるって、今日の昼間に言ってたような気がするけど」
「ああ、そのことね」と彼女は言って、ウィスキーのグラスを口元に運び、少しだけ傾けた。 「でも、時間が経つと、そんなことをあなたに話していいものかどうか、自分でもよくわからな くなってきた」
私もウィスキーを一口飲んだ。 そしてそれが食道をつたってゆっくり降りていく感触を味わい ながら、 彼女が話を続けるのを黙って待った。
「こんな話をしちゃったら、 あなたは私にがっかりして、もう会ってくれなくなるかもしれない から」
「どんな話なのかは知らないけれど」と私は言った。「うまく話せそうな機会があれば、思い切 ってそこで話しておいた方がいいかもしれない。ぼくのこれまでのささやかな経験から言って、 巡ってきた適切な機会をいったん逃してしまうと、話は余計にややこしくなることが多いみたい だから」
「でも果たして今がその適切な機会なのかしら?」
「一日の仕事を終え、細長い薄荷入り煙草に火をつけ、上等なシングルモルトを二口ほど飲ん だあとだから、たぶん適切な機会と言ってもかまわないんじゃないかな」
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539 第二部