Created on October 11, 2023 by vansw

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「アイラ島のウィスキーには泥炭と潮風の匂いがする、と人は言う」


「そうかもしれない。 泥炭の匂いがどういうものかぼくは知らないけど」


彼女は笑った。「私も知らないけど」


「いつもこんな風にして飲んでいるの? 水を少し足すだけで」と私は尋ねた。


「ストレートで飲むときもあるし、オンザロックにするときもある。 でもこうして飲むことがい ちばん多いかもしれない。 高価なウィスキーだし、香りが損なわれずにすむから」


「いつも一杯だけしか飲まないの?」


「ええ、いつも一杯だけ。日によって寝る前にもう一杯飲むことはあるけど、それ以上は口にし ない。そうしないときりがなくなるかもしれない。一人で暮らしていると、そういうのがけっこ う怖いの。まだ初心者だし」


しばらく沈黙が続いた。 閉店後の店内の静けさが肩に重く感じられた。 私はその沈黙を破るた めに彼女に尋ねた。


「ねえ、ロシア五人組のことは知ってる?」


彼女は小さく首を振った。 そして静かに煙を上げていた薄荷入り煙草の火を、灰皿にゆっくり こすりつけるようにして消した。 「いいえ、 知らないわ。 それって、なにか政治に関連したこと かしら? アナーキストのグループとか」


「いや、政治には関係ない。 十九世紀のロシアで活動していた五人の作曲家のことだよ」


彼女は不思議そうな目で私の顔を見た。「それで・・・・・・それがどうかしたの? そのロシアの五 人の作曲家が」


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