Created on October 11, 2023 by vansw
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五時半に私は家を出た。 昼間は春の到来を約束するような穏やかな陽気だったのだが、日暮れ 近くになって、冬がその失地を回復したかのように、急に冷ややかな風が吹き始めていた。 私は コートのポケットに手を突っ込んで駅までの道を歩いた。複雑な化学実験をしながら、美しいメ ロディーを頭の中で奏でているボロディンの姿を、とくに理由もなく思い浮かべながら。
六時を過ぎると客はいなくなり、彼女は片付けにかかった。首の後ろで束ねていた髪をほどき、 ギンガムのエプロンを外し、白いブラウスと細身のブルージーンズという格好になった。そのほ っそりとした無駄のない体つきはなかなか素敵だった。 全体の均整がとれており、手脚の動きは いかにもしなやかだった。
「何か手伝おうか?」と私は尋ねた。
「ありがとう。でもいいのよ。一人でやるのに慣れているし、それほど時間はかからないから。 そこに座ってゆっくりしていて」
私は言われるままカウンターのスツールに腰掛け、 彼女がてきぱきと仕事をこなしていく様子 を眺めていた。そこにはしかるべき作業手順が確立されているみたいだった。彼女は洗い終えた 食器を拭いて戸棚にしまい、各種機械のスイッチを切り、レジスターの集計をし、最後に窓のブ ラインドを下ろした。
第
閉店後の店内はいやにしんとしていた。その静けさは必要以上に深いものだった。店は昼間開 いているときとはまったく違った場所に見える。 すべての作業を終えると、彼女は石鹸で丁寧に 手を洗い、タオルで指を一本一本拭いて、 それから私の横のスツールに腰を下ろした。
一部
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