Created on October 11, 2023 by vansw

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添田さんはどうやらそのことをまだ知らないようだった。 少なくとも彼女はその朝私と顔を合 わせても、とくに普段と違った素振りは見せなかった。いつもの穏やかな小さな微笑みを浮かべ て、私に軽く挨拶をしただけだ。そしていつもの朝と同じように、定められた職務をきびきびと 的確に処理し、パートタイムの女性に必要な指示を与え、来館者の応対にあたっていた。


火曜日の朝だ。久しぶりの太陽が地上を明るく照らしていた。軒のつららが眩しく光り、凍り ついた雪はあちこちでゆっくり解け始めていた。


昼前に私は閲覧室に行って、室内を見回してみた。 六人ばかりの利用者が机に向かって本を読 んだり、 書き物をしたりしていた。三人は高齢者で、三人は学生のようだった。 老人たちは余っ た時間を読書することで潰し、若者たちは足りない時間と競争するかのように、 筆記具を手にノ ートや参考書に向かい合っていた。しかしそこにはイエロー・サブマリンの少年の姿は見当たら なかった。 普段彼が座っている席には白髪の太った男性が座っていた。


私はカウンターに行って添田さんと話をした。いくつかの仕事の用件について打ち合わせをし てから、私はふと思いついたように尋ねてみた。


「今日はM**くんの姿は見えないようだね」


「はい、今日は来ていないようです」と添田さんはとくになんでもなさそうに言った。少年が図 書館に顔を見せないこともときにはある。


私は子易さんのことを何か尋ねてみようかとも思ったが、思い直してやめた。 その場の直感で、 彼のことはもうできるだけ語らない方がいいだろうと思ったからだ。 去ってしまった魂はそっと


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