Created on September 25, 2023 by vansw
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が必要とされると彼は語っていたから。
でも何があったにせよ、今の私にできるのは、彼の残してくれたストーブの火を眺めながら、 何かが起こるのをただ待ち受けることだけだった。だから私は待った。そして時折、深い沈黙に 句読点を打つように、あるいは声を発する能力がまだ自分に残っていることを確かめるように、
私は空間に向かって小さく叫んだ。
「子易さん」
しかし返答はなかった。 返答に近い何らかの気配のようなものもなかった。 部屋を包んだ沈黙 は重く濃密で、身じろぎひとつしなかった。まるで真冬の上空に重く腰を据えた分厚い雪雲のよ うに。私はストーブの扉を開け、新しい薪を足した。
ストーブの前に立ったまま、 コーヒーショップの女性店主のことを考えた (そういえば彼女の 名前はなんというのだろう。 名前を聞くことをどうして思いつかなかったのだろう。 またどうし て私は自分の名前を相手に教えなかったのか。 名前みたいなものはさしあたって、とくに大事な 問題ではないのだろうか)。彼女のほっそりとした体つき、まっすぐな黒髪、化粧気の薄い顔、 ときどき皮肉っぽく曲げられるふっくらとした唇。 彼女には私の心を惹きつける何か特別なとこ ろがあるのだろうか? 美人というわけでもないし、それほど年若くもない(もちろん私よりは 十歳ほど若いけれど)。
しかし何はともあれ彼女の姿は私の心の隅の方に (しかし視線が間違いなく届くところに)腰 を据えたまま、そこから動こうとはしなかった。彼女は何かを、あるいは誰かを、私に思い出さ せるのだろうか? しかしどれだけ考えても、彼女の姿かたちは他の何にも、誰にも結びつかな
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