Created on September 25, 2023 by vansw

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コートのポケットから鍵束を出し、図書館の入り口の鉄扉を小さく開け、また閉めた。緩やか


な坂を上り、玄関の引き戸を開けた。図書館の中は暗く冷え切っていた。 壁付の非常灯の緑色の 明かりが仄かに館内を照らしていた。 夜中に図書館を訪れるのはこれが三度目だ。最初のときほ どの緊張はない。暗がりに目を慣らしてから、 非常灯の微かな明かりを頼りにカウンターに行っ て常備してある懐中電灯を手に取った。その光で足元を照らしながら、廊下の奥にある半地下 の部屋に向かった。


私が半地下の部屋の扉をそっと開けたとき、中は暗かった。しかしストーブの中では火が燃え ていた。炎が大きく燃え上がっているわけではないが、 何本かの太い薪が確かなオレンジ色に輝 いていた。そしていつもの林檎の古木の匂いが漂っていた。部屋の白い漆喰壁は火の輝きを受け て、オレンジ色にうっすらと染まっていた。


私はあたりを見回してみた。 誰かがストーブに薪を入れ、火をつけたのだ。おそらくは子易さ んだろう。そして彼は私をここで待っていたのだ。 しかし部屋の中にはその姿は見当たらなかっ た。ただ音もなく静かに火が燃えているだけだ。 火はしばらく前につけられたらしく、 火勢は安 定し、小さな部屋は程よく暖まっていた。私はマフラーを外し、手袋をとり、ダッフルコートを 脱いだ。 そしてストーブの前に立って冷えた身体を温めた。


「子易さん」と私は試しに声に出してみた。返事はない。声は響きを欠いたまま四方の壁に吸い 込まれていった。


子易さんは私が今夜、道を間違えてこうしてここに立ち寄ることを、前もって知っていたのだ ろうか。それとも彼が意図して、私の足をこちらに向けさせたのだろうか。 何かを伝えるため


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