Created on September 25, 2023 by vansw

Tags: No tags

486


私はそれに対してうまく返答することができなかった。 しばらく沈黙が続いた。 その沈黙は宙 に浮かぶ白紙の息というかたちをとっていた。


「でもとにかく、ありがとう。 こんな風に誰かと、食事をとりながらゆっくり話ができたのは、 ほんとに久しぶりだった」と彼女は言った。「この町に移ってきて初めてのことね」


「それはよかった」


「ワインのおかげで、少ししゃべりすぎたかもしれない。 でもあなたはきっと人の話を聞くのが 上手なのね」


「ぼくはワインを飲むと、つい人の話が聞きたくなるんだ」


彼女はくすくす笑った。「でも自分のことはあまり語らないのね」


気がついたとき、 我々は彼女のコーヒーショップの前に立っていた。


「ここが私のおうちなの」と彼女は言った。


「ここが?」


「ええ、二階部分が寝泊まりできるようになっているの。 狭いけど、簡単な設備はいちおう揃っ ていて、生活していくことはできる。 もっとましな住まいを見つけて引っ越したいと思っている んだけど、なかなかその時間が見つけられなくて」


「でも便利でいい」


「ええ、 そうね、 便利なことは便利だわ。なにしろ通勤時間はゼロだから。 とても人にお見せで きるようなところじゃないけど」


486