Created on September 25, 2023 by vansw
473
楽譜が出版されて人気を呼んだことで、死後二百年以上を経て、一挙にその名を広く世界に知ら
れるようになりました」
私はその音楽を聴きながら、二百年以上忘れ去られることについて考えてみた。 二百年は長い 歳月だ。「まったく顧みられることなく、 忘れ去られた」 二百年。二百年後に何が起こるかなん て、もちろん誰にもわからない。というか、二日後に何が起こるかも。
イエロー・サブマリンの少年は今ごろ、何をしているのだろうと、私はふと思った。図書館の 休館日を、彼はいったいどこでどのように送るのだろう? 図書館が開いていなければ、おそら く手持ち無沙汰であることだろう。 添田さんの話によれば、家の中で本を読むことは父親によっ て厳しく制限されているということだから。
そんなとき彼の頭脳の内側でいかなる作業が進行しているのか、私には想像もつかなかった。 あるいは一週間のうちに蓄積された大量の知識が、 その閑暇を利用して系統的に整理され、並べ 替えられているのかもしれない。 「家庭の医学百科」と「ヴィトゲンシュタイン、 言語を語る」 のそれぞれの断片が彼の中で有機的に結びつき、絡み合って巨大な「知の柱」の一部と化してい るのかもしれない。 その柱は もしそんなものが実際に形成されているとしてどのような 見かけの、どれほどの規模のものなのだろう? それは彼の内側に形成されたまま、人目にさら
されることはないのだろうか。 出口を持たない膨大な入力のモニュメントとして。
あるいは彼の父親が強権的に下した命令は(結果的に) 正しかったのかもしれない。 読書 (入 力作業)をいったん休止し、それまでに取り入れられた膨大な知識を仕分けし、脳内の適所に順
473 第二部