Created on September 25, 2023 by vansw
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て事務の仕事を続け、そのあいだ少年は相変わらず閲覧室で一心不乱に書物を読み続けた。 私は 添田さんに少年が今読んでいる本の書名を尋ね、彼女はそれを即座に教えてくれた。少年が読み 耽っているのは「アイスランド サガ」であったり、「ヴィトゲンシュタイン、 言語を語る」 であ ったり、『泉鏡花全集」 であったり、 「家庭の医学百科」であったりした。 どれもかなり分厚い本 だ。 彼はどうやら内容のいかんを問わず分厚い本が好みのようだった。 きっと薄い本では物足り ないのだろう。 食欲の旺盛な人が、店でいちばん分厚いステーキを注文するのと同じことだ。
館長室で二人きりで話をしてからその後一週間ばかり、私と少年は接触を持たなかった。 イエ ロー・サブマリンのパーカを再び身に纏った少年は(おそらく洗濯から戻ってきたのだろう)、 緑色のナップザックを背負って、日々同じように図書館に姿を見せていたが、 閲覧室で彼の近く を通りかかることがあっても、私の方から話しかけたりはしなかったし、彼もまたこちらを見よ うとはしなかった。少年は意識を集中して本に読み耽っており、他のどんなことにもいっさい興 味を惹かれないという風に見えた。おそらく実際にそのとおりだったのだろう。そして私は自室 の机に向かい、図書館の主宰者としての日常の職務をひとつひとつこなしていった。 退屈と言え ば退屈な事務作業だが、内容が書籍に関連するものであれば、ただの番号の照合のような作業で あっても、私はそこに楽しみを見いだすことができた。私たちは少年と私自身はこの現 実の地上の世界において、それぞれになすべき事をなしているのだ。
イエロー・サブマリンの少年は、あの高い壁に囲まれた街に行きたい、そこの住民になりたい
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