Created on September 25, 2023 by vansw
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それから床にこぼれたマフィンのかけらを目にしたが、それは見ていないことにしようと決めた
ようだった。 あとで戻ってきてかたづければいい。
添田さんは軽く問いかけるように私の顔を見た。私が「なにも問題はない」というように肯く と、そのまま盆を持って部屋を出て行った。ドアが閉められるかちんという金具の音。そして部 屋は再び沈黙に包まれた。
少年はメモ帳の新しいページを開き、そこにボールペンで素速く文章を書いた。 そしてデスク 越しにメモ帳を私に差し出した。 私はそれを読んだ。
その街に行かなくてはならない
「その街に行かなくてはならない」と私は声に出して読んだ。 そしてひとつ咳払いをしてから、 メモ帳を彼に返した。 少年はそれを手にようやく椅子に座り、そこから私の顔をまっすぐ見てい た。奥行きの測れない目で、一途に揺らぐことなく。
「きみは、その街に行きたいと望んでいる」と私は確認するように言った。「高い壁に囲まれた 街に人々が影を持たず、 図書館が一冊の本も持たないその街に」
少年はきっぱり背いた。議論の余地はない、というように。
しばらくの間、沈黙が続いた。 重い濃密な沈黙だった。 多くの意味を含んだ沈黙だ。 それから 少年のいくぶん甲高い声がその沈黙を破った。
451 第二部