Created on September 25, 2023 by vansw
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るいは理解する必要を認めていない――というだけのことかもしれない。
いずれにせよ私はすべてをそのままにしておいた。 この少年を前にしたときは、ものごとをあ るがままに受け入れていくしかない。 ブルーベリー・マフィンに興味を持って、それを実際に手 に取って食べてくれただけでも、私と彼の関係にとっては大事な一歩前進であるはずだ。
私はフォークでもうひとつの四分の一のマフィンを口に運び、それを静かに食べた。そしてハ ンカチーフで口元を軽く拭き、紅茶を一口飲んだ。 少年も立ったまま紅茶のカップを手に取り、 砂糖もレモンも入れず、そのままずるずると音を立ててすすった。もちろんそういうのもテーブ ル・マナーとしては明らかに失格だ。 おまけにその食器は(おそらく) ウェッジウッドなのだ。 しかし私はやはり知らん顔をしていた。
「なかなかおいしいマフィンだよね」と私はのんびりした声で少年に言った。
それについて少年は何も言わなかった。 唇についたブルーベリーを舌で器用に舐めただけだ。 猫たちが食後によくそうするように。
「昨日、あのコーヒーショップで買って帰ったんだ。 今日のお昼にでも食べようと思って」と私 は言った。 「それを添田さんに電子レンジで温めてもらった。 ブルーベリーはこの近くの農家で つくっているもので、それを使って近所のベーカリーが毎朝焼いている。だから新鮮なんだ」
少年はやはり何も言わなかった。彼は空になった自分の皿をじっと見つめていた。太陽が沈ん でしまったあとの水平線を、一人デッキに立っていつまでも眺めている孤独な船客のように。 私はマフィンを半分残した自分の皿を手に取って、彼の方に差し出した。
「半分残っているけど、よかったらもう少し食べないか?」
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