Created on September 25, 2023 by vansw
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ものは頭に浮かんでこなかった。 私が辛うじて知識として持っているのは、彼が福島県の出身で あり(しかしこの土地の生まれではない)、十年ほど前からこの町の小学校に勤務する教師であ り、かつて「イエロー・サブマリンの少年」を担任したということくらいだ。 いつか私がその人 物に会って話をする機会はあるのだろうか?
やがて少年の表情のこわばりが少しばかり和らいだように見えた。その思考作業もどうやら峠 を越したらしく、速度もいくぶん遅くなってきたように見えた。 そういうちょっとした緩みの感 覚がこちらにも伝わってきた。 まだ緊張は続いているものの、前ほど強固なものではなくなった らしい。
それから少年はようやく封筒から目を逸らし、デスクの上にきれいに並べられた紅茶とマフィ ンに目をやった。
「ブルーベリー・マフィン」と私は言った。 「なかなかおいしいよ」
昨日、私がコーヒーショップで彼に向かって口にしたのと同じ台詞だ。 昨日はその誘いかけは まったく無視された。 でも今回、少年はその菓子に興味を惹かれたようだった。 彼は長いあいだ それをじっと見つめていた。 ポール・セザンヌが鉢に盛られた林檎の形状を見定めるときのよう な、鋭く批評的な眼差しで。
彼の口が細かく動いているのがわかった。まるで言葉を小さくつくりかけては、それを拭い去 るといった風に。 しかしその口から言葉は出てこなかった。 彼は生まれて初めてブルーベリー・ マフィンというものを目にしたのかもしれない。 そしてブルーベリー・マフィンに関する情報を
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