Created on September 25, 2023 by vansw
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気が生まれた。モーツァルトのピアノ四重奏曲が似合いそうな情景だ。
駅前のコーヒーショップで買ってきたマフィンも紙袋から出され、美しい絵柄のついた皿の上 に、銀のフォークを添えて供されると、由緒正しい立派な菓子のように見えた。 これで三角に折 り畳まれた白いリネンのナプキンが添えられていれば、 そして赤い薔薇の一輪挿しでもあれば完 璧なのだが、いくらなんでもそこまでは期待できない。
「どうもありがとう。 とても素敵だ」 と私は添田さんに礼を言った。
添田さんは何も言わずとくに表情も変えず、ただ小さく青いて部屋を出て行った。そして私と 少年はまたその部屋に二人だけになった。
少年はそのあいだ一言も口にしなかった。 添田さんが部屋に入ってきて、 そして出て行っても、 そちらを見向きもしなかった。 デスクの上に並べられた紅茶とマフィンにも、優雅な食器と銀器 にも、まったく注意を払わなかった。彼はそこに置かれた封筒を、ただまっすぐ見つめていた。 その鋭い視線には微塵も揺らぎはなかった。 そして表情を欠いた顔の奥で、思考作業はいまだ休 みなく進められているようだった。
私は紅茶のカップを手に取って一口飲んだ。程よい熱さと濃さだった。 子易さんの淹れてくれ 紅茶もずいぶんおいしかったが、 添田さんも紅茶を淹れるのが上手であるらしい。 彼女はたぶ んどんなことでも熱心に探求する もしそれが探求に値するものであればということだがタイプなのだろう。 知的で注意深く、 何ごとにも怠りのない女性だ。
そんな女性の夫はどのような人なのだろう、と私はふと考えた。 私はまだその人物に会ったこ とはないし、彼女から夫についてのまとまった話を聞いたこともない。だからその人間像らしき
441 第二部