Created on September 25, 2023 by vansw

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ので、気分転換のために、縦長の窓のあるその明るい部屋で仕事をすることにしたのだ。 少年に もらった新しい地図を、封筒に入れたままデスクの上に置いていたが、それを取り出さないよう に心がけていた。とりあえず早急に片付けなくてはならない用件が入っていたし、いったん地図 を広げて眺め出すと、そちらに気持ちが惹かれて、仕事が手につかなくなってしまうからだ。


あらが


そう、その少年の描いた街の地図には、何かしら人の心をそそるあるいは惑わせる――特 殊な力が潜んでいるらしかった。 少なくともそれは、A4のタイプ用紙に黒いボールペンで描か れたただの地図ではなかった。見るものの心の中にある(そして普段はうまく奥に隠されてい る) 何かを呼び起こす、起動力のようなものがそこには潜んでいた。そして私はその力に抗うこ とができなかった。だから私はその日、地図を封筒から出すまいと心を引き締めていた。なんと か今日いちにちは、こちらの世界にしがみついていなくてはならないおそらくは「現実の世 界」と呼ぶべきところに。 それでも私の視線は知らず知らず、隙間風に吹き寄せられる木の葉の ように、デスクの上に置かれたその大判の事務封筒の方に向かってしまうのだった。


時折私は部屋のガラス窓を開け、そこから頭を突き出して外の風景を眺め、頭を冷やした。 海


亀や鯨が呼吸するために定期的に水面に顔を出すみたいに。しかしこんな冷え込んだ冬の日に ――そして部屋はまるで暖かくないのにどうしてわざわざ外気で頭を冷やさなくてはならな いのか、自分でも不思議だった。しかしそれはその日の私にとって、欠かすことのできない必要 な行為だった。自分が今「こちら側の世界」に生きていると確認すること。


窓の下の庭を猫が歩いているのが見えた。 縁側の下で五匹の子猫を育てていた母猫だ。 でも今


では子供たちの姿はなく、白い息を吐きながらひとりでゆっくり庭を横切っている。 尻尾をまっ


くじら


437 第二部