Created on September 25, 2023 by vansw
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女性がマフィンをオーヴンで温めながら、顔を上げて私を見た。
「ポール・デズモンド」と私は言った。
「この音楽のこと?」
「そう」と私は言った。「ギターはジム・ホール」
「ジャズのことは私、あまりよく知らないんです」と彼女は少し申し訳なさそうに言った。そし て壁のスピーカーを指さした。 「有線のジャズ・チャンネルをそのまま流しているだけだから」 私は肯いた。まあ、そんなところだろう。 ポール・デズモンドのサウンドを愛好するには彼女 は若すぎる。私は運ばれてきた温かいブルーベリー・マフィンをちぎって一口食べ、温かいコー ヒーを飲んだ。 素敵な音楽だ。 白い雪を眺めながら聴くポール・デズモンド。
そしてそのときふと思った。そういえば、あの街では音楽というものをまったく聴かなかった な、と。 それでも淋しいとは思わなかった。音楽を聴きたいという気持ちがまったく起きなかっ
た。音楽がないということにすら気がつかなかったくらいだ。どうしてだろう?
気がついたとき、カウンターのスツールに腰掛けた私の隣に、イエロー・サブマリンの少年が 立っていた。私はブルーベリー・マフィンをちょうど食べ終え、口元を紙ナプキンで拭っている ところだった。少年はいつもの紺色のダウンジャケットのジッパーを首のところまであげて、マ フラーを顎の上まで巻いていたから、彼がイエロー・サブマリンの絵のついたパーカを着ている のかどうかまではわからなかった。でもたぶん着ているはずだ。
少年がそこにいるのを目にして、私は一瞬わけがわからなくなった。 なぜ彼がそこにいるのだ
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