Created on August 29, 2023 by vansw
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かろ
存在したようだが、今では痕跡が辛うじて認められるだけだ。 君が先に立って歩き、私はあとに 従う。 私が息を切らすような上り坂でも、君はこともなげに確かな足取りで歩いて行く。 君は健 康な二本の脚と、ひとつの若い心臓を持っている。遅れないようにあとをついていくのがやっと だ。そうするうちにやがて、耳慣れない奇妙な音が耳に届くようになる。その音は時に低く太く なり、時に急速に高まり、そしてはっと急に止む。
「何の音だろう?」
「溜まりの水音よ」と君は振り向きもせずに答える。
でも水音には聞こえない。私の耳には、何らかの疾患を抱えた巨大な呼吸器の喘ぎのようにし か聞こえない。
「まるで何か話しかけているみたいだ」
「私たちに向かって呼びかけているのよ」と君は言う。
「溜まりは意思を持っているということ?」
「昔の人たちは、溜まりの底には巨大な竜が住んでいると信じていた」
君は分厚い手袋をはめた手で草を分けながら、黙々と道を進んでいく。草は ますます丈が高く なり、道と道でないところとを見分けるのが更に困難になる。
「昔来たときより、ずっと道の具合が悪くなっているわ」と君は言う。
その不思議な水音の聞こえる方向を目指して、 十分ばかり踏み分け道を進み藪を越えたところ で、急に視界が開ける。眼前には、穏やかな美しい草原が広がっている。でもその先に見える川 は、私がいつも街中で目にしているのと同じ川ではない。 心地よい水音を立てていたあの優美な
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