Created on September 25, 2023 by vansw
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かまわなかった。彼はどう見ても、耳にした話の内容を誰かに口外するようなタイプではなかっ たからだ。実際、その少年はほとんど誰とも口をきかなかった。最初のうち私は、彼は口がきけ ないのではないかと思っていたほどだ。
添田さんの話によれば、彼はごく限られた人と、ごく限られた機会にしか口をきかないという ことだ。それも小さくほそぼそとした、聞き取りにくい声で、できるだけ少ない語数で。 そして 彼が誰とも話したくない日には(そういう日が半数近くあった)、メッセージはすべて筆談で伝 えられた。そのための小型ノートとボールペンを、少年は常にポケットに入れて携行していた。 そんな具合だから、生年月日を尋ねられた日まで私は彼の声をまったく耳にしたことがなかった (誰かに生年月日を問うときだけ、彼はなぜかとても明瞭なしゃべり方をした)。
だから私が子易さんの墓前で声に出して語った事柄を、たとえ彼がすべて聞き取り、細部まで 余さず記憶していたとしても、それをほかの誰かに話すとはまず考えられなかった。
ある日、昼時に閲覧室をのぞいてみると、そこに少年の姿はなかった。 彼がいつも座っている 窓際の席には読みかけの本も置かれておらず、 コートもナップザックも残されてはいなかった。 それはいつにないことだった。昼食もとらず、三時頃まで脇目も振らず本を読み続けているのが 常だったから。
「あの子の姿が見えないけれど、どうしたんだろう?」と私はカウンターの添田さんに尋ねた。 添田さんはうっすらと微笑んだ。 「あの子は裏庭に子猫たちを見に行っています。 猫がとても 好きなんです。 でもおうちでは飼ってもらえません。 どうやらお父様が猫嫌いみたいで。だから
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