Created on September 21, 2023 by vansw
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ションとして。そして私はおそらく「夢想的な傾向を持つ人物」と分類されるだろう。ただそれ だけのことだ。しかし精密な写真記憶の能力を持つ少年の耳には、その話はどのように響くこと だろう? それは彼の心にどう受け止められることだろう?
私は石垣からゆっくり立ち上がり、野球帽をかぶり直し、 一度空を見上げて天候を確かめ、少 年の存在にはまったく気づかなかったふりをして、 墓所をあとにした。 少年の潜んでいる方には 意識して目をやらなかったが、彼がまだそこにいることは 誰かの墓石の陰に身を隠して私の 姿を見守っていることはわかっていた。 私はその少年に対して好意を抱かないわけにはいか なかった。 少なくとも彼は子易さんに対する何らかの思いを、今も強く持ち続けている。でなけ ればこの寒い冬の朝、町外れの寺の墓地までわざわざ足を運ぶようなことはないはずだ。
私は寺の不揃いな六十段あまりの石段を降り、いつものように駅の近くの名前を持たない「コ ーヒーショップ」に寄って、熱いブラック・コーヒーを注文した。 そしてブルーベリー・マフィ ンをひとつ食べた。
ギンガムのエプロンをつけたカウンターの女性は私の顔を見て微笑みかけた。 「あなたのこと は覚えています」という、自然な親しみを込めた微笑みだった。 その朝、彼女はカウンターの中 でずいぶん忙しそうに働いていた。どうやら彼女一人でこの小さな店を切り盛りしているらしか った。彼女以外の誰かが働いているのを目にしたことは一度もなかったから。 壁のスピーカーか らはやはり適度な音量でリラックスしたジャズが流れていた。かかっていたのは『スター・アイ ズ」だった。 ピアノ・トリオの端正な演奏だったが、ピアニストの名前まではわからない。 コーヒーショップで冷えた身体を温めたあと、すぐに家には戻らず、少し遠回りして図書館に
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