Created on September 21, 2023 by vansw

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は起こらなかったが、 それでも二、三の語るべきことはあった。 たとえば六十七歳の男性が、 ラ ウンジで雑誌を読んでいるときに気分が悪くなり、ソファでしばらく寝かせていたが、様子が好 転しないので救急車を呼んだ(結局、軽い食あたりであったことが病院で判明した)。 図書館の 裏庭に住みついていた縞柄の雌猫が五匹の子供を出産した。 可愛い子猫たちだ。 母子ともに元気、 少し落ち着いたら入り口に張り紙を出して、引き取り手を探すことになるだろう。 その程度のこ とだ。なにしろ平和な小さな町の、平和な小さな図書館なのだ。たいしたことは何も起こらない (時折、前図書館長の幽霊が出没することを別にすれば)。


まちなか


それから私は、高い煉瓦の壁に囲まれた街での暮らしについて語った。そこをどれほど美しい 川が流れていたか、単角獣たちがどのように街中を彷徨い歩いていたか、門衛がどれほど鋭く刃 物を研ぎ上げていたか、図書館の少女がどれほど濃厚な薬草茶を私のために作ってくれたか・・・・・・ そのような事柄をひとつひとつ細かく具体的に語った。 あるいは前にも同じようなことを話した かもしれない。しかし私はそれにはかまわず、 頭に浮かんだことを思いつくまま墓石に向かって 語り続けた。


とつとつ


もちろん墓石は終始無言だった。 石は返事もしないし、表情も変えない。私の語りかける言葉 を耳にしているのは、この私だけかもしれない。 それでも私は訥々と語り続けた。その街につい て語るべきことは数多くあった。どれだけ語っても語り足りないほど。


厚い雲は風を受けて、徐々に南へと移動しているようだった。 そんな雲を見ていると、世界が 回っているという実感があった。地球はゆっくり着実に回転し、時は怠りなく前に進んでいるの だ。その進行に確証を与えるかのように、いつもの鳥たちが枝から枝へと移り、時折鋭く啼いた。


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