Created on September 21, 2023 by vansw

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も気にかけていました。 どう扱えばいいのか、もちろん少なからず戸惑ってはいましたが」


「どんな家庭の子供なんだろう?」


「ご両親はこの町で私立幼稚園を経営しておられます。ほかにも学習塾みたいなものをいくつか。 立派なご一家です。 男の子ばかり三人の兄弟で、あの子はいちばん下ですが、上の二人は極めつ けの秀才で、どちらも地元の高校を優秀な成績で卒業し、東京の大学に進んでいます。一人は大 学を卒業後、民事弁護士をなさっています。もう一人はまだ在学中です。 たしか医学部に。 でも あの子は高校に進むこともできず、学校に行くかわりにこの図書館に通って、書棚にある本を片 端から読みまくっています。前も言いましたように、ここが彼にとっての学校なのです」 「そして読んだ本の内容をそっくりそのまま暗記する?」


「たとえば島崎藤村の『夜明け前』 を読んだとしますね。そうすればそれを、最初から最後まで 全文をそのまま暗唱することができます。 かなり長い小説ですが、なにしろすべて記憶してしま うのです。 一字一句間違いなく引用することができます。 しかしその本が何を人々に訴えようと しているのか、あるいは日本文学史の中でどのような意味を持っているのか、そういうことはた ぶん理解できていないと思います」


そういう能力を有する人々の話を、私はもちろん耳にしたことはあったが、実際に目の前にす るのは初めてだった。添田さんは言った。


「人によっては、そういう特殊な能力を気味悪がりもします。とくにこのような保守的な小さな 町では、異質なもの、普通ではないものはとかく排除されがちですし、あの子に近づくことを、 多くの人は避けています。 伝染病にかかった人を避けるみたいに。 少なくとも手を差し伸べよう


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