Created on September 21, 2023 by vansw

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を開き、話を続けた。


「ひとことも残さず妻がこの世から去っていったことで、わたくしの心は深く傷つけられました。 人目にはつきませんが、心にはぐさりと深い傷あとが残りました。 心の芯まで達する深手です。 にもかかわらず、わたくしは死ぬることなく、こうして長々と生き延びました。 それが救いのな い致命的な傷であることに、初めのうちは気づかなかったからです。 それに気づいたのはあとに なってからでしたが、そのときにはわたくしは既に生きる道を進んでおりました。 生き続けると いうレールがわたくしの前に敷かれてしまっていたのです」


子さんはそう言って、淡い微笑みを口元に浮かべた。


「それを境として、わたくしはこれまでとはべつの人間に成りかわってしまったようでした。 ひ とことでいえば、この世間における何ごとに対しても熱情が持てなくなったのです。 わたくしの 心の一部が焼け切れていたからです。 そしてまたわたくしという人間は、心に負った致命的な深 傷によって、既に半ば死んでしまっていたからです。 そのあとの人生において、わたくしがいさ さかなりとも興味を抱くことができたのは、ただひとつこの図書館だけでした。 このささやかな 個人的な図書館があればこそ、 ついこのあいだまでなんとか生きながらえてきたのです。 そのよ うなわけで、ああ、わたくしにはあなたのお気持ちが理解できます。 あなたが心に負われた傷を、 深いところで感じ取ることができます。僭越な申し上げ方かもしれませんが、まるで我がことの ようにです」


「あなたはそのことをご存じの上で、私をこの図書館の館長に選ばれたのでしょうか」


子易さんはこっくりと肯いた。「はい、わたくしには一目見たときからわかっておりました。


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