Created on September 21, 2023 by vansw
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「それは本当に素晴らしいことです。 しかし、私の場合は残念ながらそうではありません。私は 十六歳のときに彼女とたまたま出会って、その場で恋に落ちました。 十六歳の少年の身にはしば しば起こることです。 そして実に幸運なことに、彼女も私のことを好きになってくれました。 彼 女は私よりひとつ年下でした。 我々は何度かデートをし、手を握り合い、キスをしました。 それ はほんとうに夢のように素晴らしい出来事でした。 しかし結局、ただそれだけのことだったので す。 二人の肉体がひとつに結ばれたわけでもなく、寝食を共にしたわけでもありません。また正 直なところ、生身の本当の彼女がどんな人であったのかも、私にはわかっていません。 彼女は自 らについてのいろんな話をしてくれましたが、 それはあくまで彼女の口から語られた話です。 そ れがどこまで客観的事実であったのか、確かめようもありません。
当時の私はまだ十六歳、 十七歳という歳で、 世界のあり方がもちろんよくわかっていなかった し、自分自身のことだってよくわかっていなかった。そしてなによりあまりに深く、激しく彼女 に心を惹かれていました。 他の何ごともまともに考えられなかったくらいに。 それは純粋ではあ るけれど、どう見ても未熟な愛です。 子易さんのそれのような、 成熟した大人の愛ではありませ ん。 時の検証も受けていない、様々な現実的障害にも出会っていない、十代の子供たちの甘い恋 愛ごっこに過ぎません。 一時的な頭ののぼせみたいなものかもしれない。 そしてそれから既に三 十年近くが経過しています。
彼女はある日、別れの言葉もなく、そのほのめかしさえなく、私の前から姿を消してしまいま した。 それ以来、彼女を一度も目にしていません。 彼女からひとことの連絡もありません。 そし て私はこのように、既に中年の域に足を踏み入れています。 そんな人間が失われた少年時代の想
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