Created on September 21, 2023 by vansw
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しかし子易さんは長いあいだじっと黙り込んでいたので、私はとりあえず何かを口にしないわけ にはいかなかった。
「それは、きっとつらいことなのでしょうね」
「はい、孤独とはまことに厳しくつらいものです。 生きておっても死んでしまっても、その身を 削る厳しさ、つらさにはなんら変わりありません。 しかしそれでもなおわたくしには、かつて誰 かを心から愛したという、強く鮮やかな記憶が残っております。 その感触は両の手のひらにしっ かり染みついて残っております。 そしてその温かみがあるとないとでは、死後の魂のありかたに も大きな違いが出てくるのです」
「おっしゃっていることは理解できると思います」
「あなたにもやはり、かつて誰かを深く愛した、強く鮮やかな記憶がおありなのですね。 そして その人の魂を追って、遠い遠い場所まで旅をされ、こうしてまた戻ってこられた」
「子易さんはそのこともご存じなのですね」
「はい、存じております。 前にも申し上げたように、一度でも自分の影を失われた方は、一目で それと見て取れます。そのような方は当然ながら、なかなかおられません。とりわけまだ生きて おられる人の中には」
私は黙ってストーブの火を眺めていた。私の体内で時間が淀む感触があった。時間の流れが何 かの障害物に妨げられているみたいだ。
「そこに行って、またこちらに帰ってくるというのが生身の人間にとってどれほどむずかしいこ とか、そのことはご存じなのでしょうね?」と子易さんは言った。 「そちらに行くのはともかく
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