Created on August 28, 2023 by vansw

Tags: No tags

86


老人はかたんという乾いた音を立てて、コーヒーカップを陶器の皿に置いた。 「ひとつだけ言えるのは そこにあったのは人が決して目にしてはならぬ世界の光景だったと いうことだ。とはいえ同時にまた、それは誰しもが自らの内側に抱え持っている世界でもある。 私の中にもそれはあるし、あんたの中にもある。しかしなおかつ、それは人が目にしてはならん 光景なのだ。だからこそ我々はおおかた目をつぶって人生を生きているのだ」


老人はひとつ咳払いをした。


「わかるかね? それを目にすれば、人は二度と元には戻れない。いったん目にしたあとではな ….……..あんたもよくよく気をつけた方がいいぞ。 なるたけそうしたものには近寄らんようにな。 近


あらが


寄れば、必ずや中をのぞき込みたくなる。 その誘惑に抗うのはずいぶんとむずかしい」


老人は私に向かって人差し指を一本、まっすぐ立てた。 そして念を押すように繰り返した。 「よくよく気をつけた方がいい」


だから影を棄ててこの街に入ったのですか? 私は老人にそう尋ねたかった。しかし声はうま く出てこなかった。


老人は私のその無言の問いかけを耳にはしなかったようだ。 あるいは耳にしたとしても、答え るつもりはないらしかった。 風に乗って窓に吹き付ける硬い雨音が沈黙を埋めた。