Created on September 21, 2023 by vansw
372
だから雪靴もコートも必要ない。
「お元気そうでなによりです」と子易さんは両手を擦り合わせながら、にこやかに言った。 「ま」 あ、お座りなさい」
私はストーブの前で重いコートを脱ぎ、 マフラーを外した。 手袋もとった。 木の椅子に腰を下 ろし、子易さんに尋ねた。
「私が今夜ここに来ることは、子易さんにはきっと前もってわかっていたのでしょうね?」
子易さんは軽く首を傾げた。
「おそらくはお気づきのように、わたくしがこの図書館を離れることはありません。 と申します か、ここを離れることは実際にできんのです―人としての姿かたちをとるにせよとらぬにせよ。 ただあなたが今夜ここにお見えになるであろうことが気配として感じ取れたので、力を尽くして このように形象化し、心してお迎えの用意をしておりました」
「今日はなぜかうまく眠れなかったのです。だから外を少し散歩しようと思って、暖かい格好に 着替えて家を出て、そのままこの図書館に足が向いてしまいました」
子易さんはゆっくり背いた。 「ああ、そういえば、あなたは今日の朝お寺の墓地にいらして、 わたくしどものお墓をごらんになったのですね?」
「なんと言えばいいのか、子易さんのお墓参りのようなことをさせてもらいました。 出過ぎた真 似だったかもしれませんが」
「いえいえ、そんなことはまったくありませんよ」と子易さんはにこやかに首を振って言った。
「あなたのお心持ちには深く感謝いたしております。 けっこうなお花までいただきましたようで」
372