Created on September 17, 2023 by vansw

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そうするうちに出し抜けにまるで足元の茂みから鳥が飛び立つみたいに唐突に――その題 名を思い出した。駅近くのコーヒーショップでかかっていた、コール・ポーターのスタンダード 曲の題名を「Just One of Those Things (よくあることだけど)」だ。そしてそのメロディーが、


意識の壁にこびりついた呪文のように、耳の奥で何度も何度も繰り返された。


枕元の電気時計は十一時半を指していた。 私は眠るのを諦めて布団から出て、パジャマの上に カーディガンを羽織り、ガスストーブの火をつけ、冷蔵庫から牛乳を出して、 小鍋で温めて飲ん だ。生姜入りのクッキーを何枚かかじった。 そして安楽椅子に座って、読みかけていた本のペー ジを開いた。しかし読書に意識を集中することができなかった。様々なイメージや様々な音が、 私の頭の中を脈絡なく駆け巡っていた。 違う世界から送り届けられる、意味の通らないメッセー ジのように。無音の自転車に乗った顔のないメッセンジャーたちが、それらのメッセージを次々 に私の戸口に置き、そのまま去っていった。


私は諦めて本を閉じ、安楽椅子の上で大きく何度も深呼吸をした。意識を集中し、肺を思い切 り膨らませ、肋骨を広げた。 体内にある空気を隅々までそっくり入れ換えるために。 落ち着かな い気持ちを少しでも落ち着かせるために。 でもそんなことをしても役には立たなかった。


私のまわりにあるのは、いつもどおりの静かな夜だった。 この時刻、 家の前の道路を通る車も ない。 犬も鳴かない。文字通り物音ひとつ聞こえない私の頭の中で終わりなく鳴り続けてい る音楽を別にすれば。


なんとか眠ってしまいたかったが、どれだけ努めてもおそらくそれはかなわないだろう。ウィ スキーもブランデーも役には立つまい。自分でもそれはよくわかっていた。 今夜、おそらく何か


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