Created on September 17, 2023 by vansw
366
しみこんだ冷気もとれてきたようだった。
「コーヒーのお代わりは半額になります」とカウンターの女性が私に言った。
「ありがとう」と私は言った。「これはなかなかおいしいマフィンだ」
「できたてです。 すぐ近くのベーカリーで焼いているんです」と彼女は言った。
勘定を済ませ、膝にこぼれたマフィンのかけらを手で払い、その店を出た。店を出るときに、 ギンガムチェックのエプロンをかけた女性が、カウンターの中から私ににっこり微笑みかけた。 よく晴れた冬の朝に相応しい、温かみの感じられる微笑みだった。 マニュアルどおりの出来合い の微笑みではない。
その女性は三十代半ばくらいに見えた。 ほっそりとした体つきの、とりたてて美人とは言えな いまでも、感じの良い顔立ちの女性だ。 化粧は薄い。 もっと若く見せようと思えば簡単にできた だろうが、そのような努力はとくに払われてはいないようだ。そういうところに程よい好感が持 てた。
「実は、今までずっとお墓の前にいたんだよ。本当にはまだ死んでいない人のお墓の前に」、私 は別れ際に彼女にそう言いたかった。誰でもいい、誰かに打ち明けたかった。 でももちろんそん なことは口にできない。
366