Created on September 17, 2023 by vansw
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足を滑らせないように一歩一歩足元を確かめながら寺の石段を降り、町に戻った。
駅の近くの商店街を歩いているとき、 乾物屋と寝具店の間にはさまれた、小さなコーヒーショ ップを見つけた。その前を何度も歩いていたはずなのに、そんな店が存在していたことになぜか これまで私は気づかなかった。たぶん歩きながら考え事でもしていたのだろう(それは私の場合 しばしばあることだった)。 ガラス張りの明るい店で、外から見るとカウンター席のほかに、小 さなテーブル席が三つばかり並んでいた。店の名前はどこにも見当たらなかった。ドアに「コー 「ヒーショップ」と書かれているだけだ。 名前のないただのコーヒーショップ。平日の午前中とい うこともあって客の姿はなく、女性が一人でカウンターの中で働いていた。
私はガラスのドアを開けて中に入った。 墓地で冷えきった身体をとりあえず温める必要を感じ たからだ。 カウンターのいちばん奥の席に座り、熱いコーヒーと、ショーケースに入っていたブ ルーベリー・マフィンを注文した。
天井近くにセットされた小型のスピーカーからは、デイヴ・ブルーベック・カルテットの演奏 する、コール・ポーターの古いスタンダード曲が小さな音で流れていた。 清らかな水流を思わせ るポール・デズモンドのアルトサックス・ソロ。よく知っているはずの曲なのに、タイトルがど うしても思い出せなかった。 しかしたとえタイトルが思い出せなくても、静かな休日の朝に聴く に相応しい音楽だ。 遥か遠い昔から生き残ってきた美しく心地よいメロディー。 私はしばらく何 も考えずにただぼんやりとその音楽に耳を澄ませていた。
出されたコーヒーは濃くて、ほどよく苦く熱く、ブルーベリー・マフィンは柔らかく新鮮だっ
た。コーヒーはシンプルな白いマグカップに入っていた。 十分ばかりそこにいるうちに、身体に
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