Created on September 17, 2023 by vansw
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の方が雄弁になり得るのだ。
間違いない――子易さんは既にこの世の人ではない。私がこれまで会って、差し向かいで話し ていたのは、彼の幽霊だったのだ。 あるいは、生前の姿かたちをまとった彼の魂だったのだ。 私 はそのことを彼の墓の前で、動かしがたい事実としてあらためて受け入れた。
持参したささやかな花束を子易家の墓前に供え、 それから墓の前に立って両目を閉じ、 黙って 両手を合わせた。近くの木立で、名を知らぬ冬の鳥が鋭く啼いた。 そして自分でも気づかないう ちに、私の目から涙が一筋こぼれた。 確かな温もりのある大粒の涙だった。 その涙はゆっくり顎 まで流れて、 それから雨だれのように地面に落ちた。 そして次の涙が同じような軌跡を描いてこ ぼれ落ちていった。 更なる涙がそれに続いた。私がそれほどたくさんの涙を流したのは久しぶり のことだった。 というか、このまえ涙を流したのがいつだったか、それも思い出せなかった。 涙 がこれほどの温かみを持ったものだということも忘れてしまっていた。
そう、涙も血液と同じように、温もりある身体から絞り出されたものなのだ。
私は頭を軽く振って思った。 こうして墓前にたたずんでいる私の姿を、子易さんはどこかから 見守っているのかもしれないなと。 それは奇妙な感覚だった。 私たちは通常、近しい死者を悼む ために墓参りをする。 そして安らかに眠ってほしいと冥福を願う。 でも子易さんは亡くなっては いながら、いまだに死者の世界と生者の世界を往き来している。 おそらくは誰かに何かを伝える ために。彼には伝えなくてはならないことがあるのだ。そのような存在に向かって、墓前でいっ たい何を祈ればいいのだろう?
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