Created on September 17, 2023 by vansw
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生きている私にわかるわけがあろうか?
私に傷つきやすい肉体と不完全な思考力しか持ち合わせず、現世という地面にしがなく縛 りつけられているこの私に できることといえば、子易さんの幽霊が、おそらくは彼の置かれ た事情なり都合なりに合わせて私の前に出現するのを、ただひたすら待ち受けることだけだった。 その沈黙に満ちた半地下の真四角な部屋で、 古びた薪ストーブに薪をくべながら。
しかし子易さんは姿を見せなかった。 添田さんと館長室で向かい合って話をしてから、一週間 ほどが経過していた。そのあいだに、山に囲まれた町の冬は日々深まっていった。まとまった量 の雪が降り、一晩のうちに一メートル近く積もった。それほど多くの量の雪を目の前にするのは、 温暖な太平洋沿岸でこれまでの人生の大半を送ってきた私にとっては初めてのことだった。 私は 朝から、平らなアルミ製の専用シャベルを持って、門から図書館の玄関に至るなだらかな坂道の 雪かきをした。 生まれて初めて経験する雪かき作業だ。
図書館で働いているのは添田さんのほかにはパートの女性ばかりで、臨時に雇う手伝いの老人 を除けば男手といえばこの私くらいしかいない。たまに何か実際的な役に立つというのは気分の いいものだ。空気はきりきりと寒かったけれど風もなく、空が嘘のように晴れ渡った美しい朝だ った。雲ひとつ見当たらない。 大雪をもたらした大量の雲はどこかに去ってしまったらしい。 あ るいは抱えていた雪を降らせるだけ降らせて、そのまま消滅してしまったのか。
久方ぶりの純粋な肉体労働は、思った以上に私の精神をきれいに晴らしてくれた。 やがてシャ ツにじわりと汗が滲んできた。 上着を脱ぎ、 朝の日差しの中で脇目も振らず、 黙々と雪かき作業
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