Created on September 17, 2023 by vansw

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デスクの隅にはいつもどおりベレー帽が置かれています。そういうときには、彼がもう亡くなっ た人なのだとは私にはどうしても思えませんでした。 子易さんを前にしていると、 生と死との違


いがだんだんわからなくなります」


その気持ちは私にもよく理解できた。


添田さんは言った。 「あなたが子易さんとお会いになって、二人で親しくお話をなさっている ことは、私にも薄々わかっていました。 そういう気配は察せられます。 しかし先ほども申し上げ ましたように、お会いになっているのが生きている子易さんではなく、彼の幽霊なのだとは、私 の口からは言い出せません。 そしてまた、生きているあなたと死んでしまった子易さんが、その ようなかたちで良好な関係を持っておられるのだとしたら、そこにはそれなりの理由があるはず です。その理由は私なんかには考えもつかないことです」


「でもあなたばかりではなく、ほかの誰かと話をしていても、なぜか子易さんが既に亡くなって いるという話が出てくることはありませんでした。 一度くらい、たとえば 「そういえば、亡くな った子易さんが・・・・・・」みたいな発言が出てきてもいいはずなのに。どうしてだろう?」


添田さんはまた首を振った。 「さあ、どうしてでしょう。 そのへんのことはわかりません。 あ るいは目には映らない特別な力の作用がそこに働いていたのでしょうか」


私は部屋の中を見回した。 どこかに子易さんがいるのではないかと思って。 あるいはまた「目 には映らない特別な力の作用」がどこかに働いているのではないかと思って。 しかしそこにはた だ動きのない、ひやりとした午後の空気があるだけだった。


「それとも他の人たちも、薄々感じていたのかもしれませんね」と私は言った。「子易さんがま


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