Created on August 28, 2023 by vansw
84
のはないのか、と。しかし主人はそんな話は耳にしたことはないと言った。それは嘘には聞こえ なかった。何かを隠しているというのでもなさそうだ。とすれば、その部屋でその女の亡霊を、 あるいは幻影を目にしたのは私一人だけなのか。なぜだ? なぜこの私なのだ?
傷もやがて癒えて、まだ多少脚をひきずってはいるものの、通常の生活を送れるようになった。 怪我のため軍務を解かれ、故郷の町に帰ることを許された。 しかし故郷に戻っても、その女の顔 を忘れることができんかった。 どんな魅力的な女と寝ても、どれほど気立ての良い女と知り合っ ても、頭に浮かぶのはその女のことばかり。まるで雲の上を歩いておるような気分だ。私の精神 はその女に、その亡霊にすっかり取り憑かれてしまっていたんだ」
私は朦朧とした意識を抱えたまま老人の話の続きを待った。雨混じりの風が窓を打ち、それは 切迫した警告のようにも聞こえた。
「しかしそんなある日、私はある事実に思い当たった自分がその女の片側しか見ていなかっ たことにな。女は常に私に左の横顔を向け、微動だにしなかった。 動きと呼べるのは瞬きと、た まにほんの僅か首を傾げる動作くらいだ。つまり、地球に住む我々が月の同じ側しか見ていない のと同じように、私は彼女の表側だけを見ていたんだよ」なんだよ う
老人はそう言って、左の頬を手のひらでごしごしと撫でた。頬は鋏で切り揃えられた白い髭で 覆われていた。 真(女 祉談会日本
「心が激しく揺さぶられ、どうしてもその女の右の横顔が見たくなった。それを目にしないこと には、自分の人生はなんの意味も持たないとさえ思いなすようになった。そして矢も楯もたまら ず、すべてをうち捨ててその温泉町に向かった。 まだ戦争は続行しており(とてもだらだらと長