Created on August 28, 2023 by vansw
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たのもそのベランダだった」
亡霊?と私は尋ねようとしたが、声は出なかった。しかし老人の皿形アンテナのような大き な耳は、それを聴き取ったようだった。
「ああ、間違いなく亡霊だった。 夜中の一時過ぎにふと目を覚ますと、ベランダの椅子にその女 が一人で座っておった。白い月の光に照らされてな。 一目見てそれが亡霊だとわかった。 現実の 世界にはそれほど美しい女性は存在しない。 この世のものではないからこそ、そこまで美しくな れるんだ。私はその女を前にして言葉を失い、凍りついてしまった。そのときこう思うた。 この 女のためなら何を失ってもかまわないと。 片脚だって、片腕だって、あるいは命だってな。 その 美しさを言葉で表現することはできん。 この人生で抱いてきた夢のすべてを、追い求めてきた美 のすべてを、その女は体現していた」
老人はそう言うと、あとはぴたりと口を閉ざし、窓の外の雨をじっと睨んでいた。外は薄暗か ったので、鎧戸は大きく開かれていた。濡れた敷石の匂いが、窓の隙間から部屋に冷ややかに忍 びこんでいた。 しばらくして彼は瞑想を解き、再び語り始めた。
「それから毎晩、女は私の前に姿を見せ続けた。いつも同じ時刻に、ベランダの籐椅子に座り、 じっと外を眺めていた。 そして常にその完璧な横顔をこちらに向けていた。でも私には何をする こともできなかった。 彼女を前にすると、 言葉なんて出てこないし、口の筋肉を動かすことさえ 部 できない。金縛りにあったみたいに、ただその姿に見入っているしかない。 そしてひとしきり時 間が経過し、ふと気がついたときには、いつの間にか姿を消している。
私は宿屋の主人にそれとなく尋ねてみた。 私の滞在している部屋には、何か因縁話のようなも
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