Created on September 15, 2023 by vansw
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五分おきに時計の針に目をやりながら、正午まで妻の帰りを待った。でも彼女は戻ってはこなか った。
もう二度と彼女には会えないのだろうと、子易さんは思った。というか、彼にはそれがかかっ たのだ。彼の本能がはっきりとそう告げていた。彼女はもう彼の手の届かないところに行ってし まったのだ。おそらくは永遠に。
「子易さんの奥さんの遺体が、川の増水ぶりを点検に来た消防団員によって発見されたのは、そ の日の午後二時ごろのことでした」と添田さんは言った。「川に身を投げたらしく、自宅のある あたりから二キロほど下流に流され、橋脚に絡まった流木にひっかかって止まっていました。足 がナイロンのロープで縛られていました。 きっと身を投げる前に、自ら縛ったのでしょうね。 流 される途中であちこちにぶっつけられたようで、身体は傷だらけになっていました。また解剖の 結果、 睡眠薬が胃から検出されましたが、命にかかわるほどの量ではありません。 医師が処方し たマイルドな種類の睡眠薬です。 でも彼女はまず手に入る限りの睡眠薬を集めて飲み、それから 自分で自分の足を縛り、自宅近くの橋から川に身を投げたのでしょう。 死因は溺死で、警察は後 それを自殺と断定しました。 子供の事故死以来、 彼女が精神的に深く落ち込んで、深刻な鬱状 態におちいっていたことは周知の事実でしたから、自殺であることに疑問の余地はまずありませ んでした」
「彼女が身を投げた川というのは、うちの前を流れるあの川のことですね?」
「そうです。 ご存じの通り普段は水かさの少ない穏やかで美しい川です。 しかしいったん大雨が
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