Created on September 15, 2023 by vansw

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あの子は事故に遭ったりしなかったし、死ぬこともなかったのよ。 今でも私たちと一緒に、元気


に楽しく生きていられたのよ」


そんなことはない、と彼は言葉を尽くして言い聞かせた。なにも君が悪いんじゃない。 それじ や原因と結果を取り違えていることになる。だいたい犬が駄目なら自転車を買ってやろうと言い 出したのは僕じゃないか。 僕のアイデアだったんだ。いずれにせよすべては起こるべくして起こ ったことだ。 誰のせいでもない。 誰が悪いわけでもない。ただいろんなことがたまたま運悪くひ とつに重なってしまったんだ。運命としかいいようがない。 今さら細かいことをひとつひとつ言 い立てても、なくなった命が戻ってくるわけでもない。


しかし彼女は彼の口にすることなど、まったく聞いてはいなかった。彼の言葉は何ひとつ耳に (入らないようだった。ただ自分の主張を録音されたエンドレス・メッセージのように、きりな く繰り返すだけだ。あのときもし子供の希望通り犬を飼っていれば、自転車を買うことはなかっ たし、その結果子供が命を落とすこともなかったのだ······と。


そしてまた彼女は料理の途中でうっかり切らしてしまった食塩についても、繰り返し繰り返し 語り続けた。塩が切れかけていることには気づいておくべきだった。その買い置きがどこにある かも頭に入れておくべきだった。すべては私の不注意のせいだ。塩が切れてしまったおかげで、 それに気を取られ、あの子の歌声が聞こえなくなったことに気づかなかった。 炒め物をしている。 途中で容器の塩がなくなったというだけのことで。 そんなくだらないことのために、あの子の大 事な命は永遠に奪われてしまった。おまけに料理途中のガスの火を消したかどうか、私にはそれ さえ思い出せない。