Created on September 15, 2023 by vansw
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「でも、そのような幸福な日々は、長くは続きませんでした。 残念なことに」と添田さんは、私 の無言の考えを読み取ったかのように話を続けた。
男の子は五月半ばに五歳の誕生日を迎え、賑やかな誕生日のお祝いがあった(ちなみにそのと き、子易さんは四十五歳、奥さんは三十五歳になっていた)。子供は誕生日のお祝いに、赤い小 さな自転車を買ってもらった。本当は毛の長い大型犬が欲しかったのだが (子供は「アルプスの 「少女ハイジ」に出てくる犬に夢中になっていた)、母親が犬の毛のアレルギーだったので、今回 は犬は我慢して、その代わりに自転車を手にすることになったのだ。でもそれはとても可愛い素 敵な自転車だった。 だから子供はそれで十分幸福な気持ちになった。 そして幼稚園から帰宅する と、毎日自宅の庭で得意げに補助輪つきの自転車を乗り回していた。歌をうたうのが好きな子で、 自転車を運転しながらいつも何かの歌をうたっていた。 自分で作ったでたらめな歌をうたうこと もあった。
ある日の夕方、母親は台所で夕食の用意をしながら、窓の外から聞こえてくる子供の歌声に耳 を澄ませていた。それは彼女にとって何より幸福なひとときであったはずだ春の夕暮れ、て きぱきと家事をこなしながら、自転車を楽しげに乗り回している五歳の子供の歌声に耳を傾けて いること。
でも炒め物をしている途中で容器の塩が切れてしまい、その買い置きを探すことに気を取られ、 子供の歌声が聞こえなくなったことにしばらく気がつかなかった。 それに思い当たってはっとし た瞬間、彼女が耳にしたのは大型車が急ブレーキをかける音だった。 そして何かが弾けるような
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